ストーリー

旧城山国民学校のストーリー

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【被爆前】

【被爆前】

「長崎原爆資料館 所蔵」

 旧城山国民学校校舎は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの3階建てで、1945(昭和20)年には、およそ1,500人の児童が在籍していました。美しい白亜の校舎は、地域の人たちにとっても誇りでした。
 戦争がはじまり空襲の危険が迫ると、子どもたちを登校させるのは危険と考え、近所同士(隣組)で学習する仕組みにしていました。児童がいなくなった学校には三菱兵器製作所の事務室が疎開していました。

【被爆後】

 1945(昭和20)年8月9日。原爆による凄まじい爆風と熱線は、全てのものを破壊し尽くしました。爆心地から西に500mにあった城山国民学校も、例外ではありませんでした。(写真右側が爆心地、左側の川を超えたところに城山国民学校が見えます)

「長崎原爆資料館 所蔵」

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「長崎原爆資料館 所蔵」

 爆心地から、旧城山国民学校校舎に歩いて向かいます。この写真は、その方向から撮られたものです。原爆の爆風で校舎は大変な被害を受け、見渡す限り、人の営みは失われました。
 当時、校内には教職員33人(その家族含む)と三菱兵器製作所職員や動員学徒など約120人が各々の持ち場で作業をしていました。このうち、教職員29人、三菱兵器製作所職員や学徒動員など103人が亡くなりました。また、およそ1,500人の児童のうち、約1,400人が自宅や校区内で亡くなりました。

【現在】

 被爆後、補修しながら使われてきたこの校舎は、老朽化のため1979(昭和54)年から段階的に立替えが始まりました。
 当初は、被爆校舎のすべてが解体される予定でしたが、慰霊会や同窓会そして育友会による保存活動がみのり、現在ある階段棟が残されることになりました。
 その後、城山小学校の児童の発案と慰霊会等の働きかけにより、内部が見学できるように整備され、1999(平成11)年「平和祈念館」として開館し、今に至ります。
 多くの教職員や児童が亡くなった城山小学校では、毎月9日に平和祈念式を執り行い「平和は城山から」を合言葉に核兵器がもたらす悲惨さや平和の大切さを学んでます。

平和祈念館 内部の様子

平和祈念館には、被爆当時の写真パネルや資料などが展示されています。

平和祈念館 内部の様子

高い熱を受けて黒く炭化した木煉瓦を見ることができます。

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 城山小学校から爆心地側をのぞみます。原爆により焼け野原となった長崎の街は、先人たちのたゆまぬ努力により復興しました。丘上の城山小学校から人の営みを取り戻した長崎の街を見ると、原爆の惨禍を繰り返してはならないこと、そして、あたり前のように思えてしまう平和の大切さに気付かせてくれるように思います。

「長崎原爆資料館 所蔵」