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④原爆の破壊力と生命の力強さを感じるコース

原爆による破壊の痕跡が色濃く残る被爆遺構と、その惨禍を乗り越えて力強く生き続けている被爆樹木を巡るコースです。

おおすめルート04

原爆の破壊力と生命の力強さを感じるコース

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コースマップ

爆心地

長崎原爆の中心点

1945(昭和20)年8月9日11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂しました。
原爆が炸裂した直下の場所が爆心地です。
現在、原子爆弾落下中心地碑という黒御影石の柱が立てられ、この場所が原爆の被害の基点となった場所であることを伝えています。

ゲストハウス(旧長崎医科大学の配電室)

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この建物は1931年に建てられ、戦前は宿泊施設(ゲストハウス)として使われていましたが、戦時中は配電室として使用されていました。分厚いコンクリート造であったため、爆心地から約500mという近距離にあったにもかかわらず、大きく破壊されることもなく原型を留めた形で残りました。

旧長崎医科大学門柱

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爆心地から600mに位置するこの正門には1.2m四方、高さ1.8mの門柱が左右に設置されており、左側の門柱は爆風の影響により9cmも前にずれ、台座との間に最大で16cmの隙間ができました。これは、爆風の圧力を測定する基礎となりました。
戦後、キャンパスの復興に伴いこの門は通用門として利用されることになりましたが、門柱は現在も被爆当時の姿を残し、原爆の悲惨さを伝えています。

山王神社二の鳥居

一本柱で立ち続ける鳥居

1924(大正13)年10月に山王神社の参道の延長に伴い設置された鳥居で、被爆当時、神社の外側から数えて2番目の鳥居だったので二の鳥居と呼ばれています。
爆心地から南東へ約800mに位置し、爆風によって一方の柱は倒壊し、一本柱となり上部に残された笠木が反対方向にずれています。また、熱線による立っている柱の爆心側は鉱物が溶け刻字が読めなくなっています。
長崎を代表する被爆遺構の一つです。

山王神社大クス

生命の力強さで人々を勇気づけた大クス

山王神社大クスは、爆心地から約800mに位置している山王神社の境内にあります。原爆当時、境内の樹齢400年以上という大クスも爆風と熱線を受け、黒焦げの太い幹だけが残り、あたかも死んでしまったかのようでした。しかし、被爆から約2か月後には、新芽が芽生き、その後も順調に樹勢を回復し、葉の生い茂る大クスに回復しました。原爆により地域全体が廃墟となり、家族や親せきを失い、住む場所もままならなかった地域の人々は、この大クスの生命力の力強さに大いに勇気づけられたといいます。