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➄国指定史跡「長崎原爆遺跡」を巡るコース

爆心地を起点とした、被爆校舎である旧城山国民学校校舎、崖下の小川に滑落した浦上天主堂旧鐘楼、爆風により傾いた旧長崎医科大学門柱、爆風で一本柱となった山王神社二の鳥居から構成される国指定史跡「長崎原爆遺跡」を巡るコースです。

おおすめルート05

国指定史跡「長崎原爆遺跡」を巡るコース

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コースマップ

爆心地

長崎原爆の中心点

1945(昭和20)年8月9日11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂しました。
原爆が炸裂した直下の場所が爆心地です。
現在、原子爆弾落下中心地碑という黒御影石の柱が立てられ、この場所が原爆の被害の基点となった場所であることを伝えています。

山王神社二の鳥居

一本柱で立ち続ける鳥居

1924(大正13)年10月に山王神社の参道の延長に伴い設置された鳥居で、被爆当時、神社の外側から数えて2番目の鳥居だったので二の鳥居と呼ばれています。
爆心地から南東へ約800mに位置し、爆風によって一方の柱は倒壊し、一本柱となり上部に残された笠木が反対方向にずれています。また、熱線による立っている柱の爆心側は鉱物が溶け刻字が読めなくなっています。
長崎を代表する被爆遺構の一つです。

旧長崎医科大学門柱

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爆心地から600mに位置するこの正門には1.2m四方、高さ1.8mの門柱が左右に設置されており、左側の門柱は爆風の影響により9cmも前にずれ、台座との間に最大で16cmの隙間ができました。これは、爆風の圧力を測定する基礎となりました。
戦後、キャンパスの復興に伴いこの門は通用門として利用されることになりましたが、門柱は現在も被爆当時の姿を残し、原爆の悲惨さを伝えています。

浦上天主堂旧鐘楼

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浦上天主堂は、爆心地の北東約500mに位置します。浦上カトリック信者が30年の歳月をかけて、積み上げていった煉瓦造りの天主堂は、原爆により、わずかな堂壁を残して倒壊しました。
天主堂の正面には2基の塔があり、その上に鐘楼がありましたが、原爆被爆により鐘楼のドームは南側のものが天主堂内に落下し、北側のものは天主堂北側に落下し、がけ下を流れる小川まで滑落しました。この鐘楼は、鉄筋コンクリート製で直径5.5m、推計約50tと言われています。

旧城山国民学校校舎

爆心地から最も近い国民学校

城山国民学校は爆心地から最も近くに位置する国民学校でした。
校舎は鉄筋コンクリート造だったため、辛うじて外形は保ったものの爆風と熱線が引き起こした火災により全壊状態でした。
現在保存されているのは階段棟の部分で、1999(平成11)年2月から児童の発案で展示室として公開されています。原爆後の高熱火災により炭化した木煉瓦や被爆当時の写真パネル等を見学できます。被爆遺構を肌で感じ、被爆の実相を学ぶことができます。