長崎の被爆遺構

ゲストハウス

この建物は1931年に建てられ、戦前は宿泊施設(ゲストハウス)として使われていましたが、戦時中は配電室として使用されていました。分厚いコンクリート造であったため、爆心地から約500mという近距離にあったにもかかわらず、大きく破壊されることもなく原型を留めた形で残りました。

ゲストハウス
(旧長崎医科大学の配電室)

長崎医科大学、附属医学専門部、附属薬学専門部は、現在の長崎大学医学部の場所にキャンパスがありました。当時は大部分の校舎が木造で、ごく一部の建物が鉄筋コンクリート造だったため、原爆被爆により爆心地からわずか500mに位置していたこのキャンパスは、木造校舎は全て全壊全焼、わずかな鉄筋コンクリート造の建物だけがその形をとどめました。
学生と教職員500余名が、このキャンパスで死亡し、生き残ったのは地下室と防空壕にいた12名といわれています。講義中だったのでしょうか。教員は教壇で、学生は自席で座ったまま被爆し、建物が倒壊、炎上、骨となった状態で見つかったという証言が残されています。
この建物は1931年に建てられ、戦前は宿泊施設(ゲストハウス)として使われていましたが、戦時中は配電室として使用されていました。分厚いコンクリート造であったため、爆心地から近距離であったにもかかわらず、大きく破壊されることもなく原型を留めた形で残ったと思われます。
戦後増築され、4部屋のゲストハウスとして利用されています。長崎大学関係者しか宿泊できませんが、被爆建物が宿泊施設となっているのは、長崎ではここだけです。

MAP

長崎の被爆遺構

Nagasaki Atomic bomb remains