長崎の被爆遺構
山里小学校防空壕
山里小学校は、爆心地から北へ約700mに位置します。かつては山里国民学校と呼ばれたこの学校は、鉄筋コンクリート3階建の「コ」の字形の校舎は全壊し、北側の校舎の1階と2階を除き全焼しました。
山里国民学校には、教職員や動員学徒が避難するための防空壕が多く掘られており、その一部が現在も被爆遺構として保存されています。また、原爆資料室で被爆資料を見学できるほか、永井隆博士の発案により被爆児童の手記を集めた『原子雲の下に生きて』が出版され、その原稿料の一部を出し合って造られた慰霊碑『あの子らの碑』をはじめとする、いくつもの平和のモニュメントがあります。
山里小学校防空壕
(山里小学校資料室)
山里小学校は、1874年開校の「中馬込小学校」「山王小学校」と1876年開校の「中野小学校」を前身とする長崎市北部でも有数の歴史ある小学校です。
原爆被爆時は、爆心地から北へ約700mにあったため、コの字形をした鉄筋コンクリート3階建ての校舎は全壊、校舎北側の1、2階を残して全焼しました。被爆当時の児童数は1500人を超えていましたが、児童は当時隣組単位での自学学習であったため、自宅などで約1300人が亡くなったとみられています。教職員は、馬渡校長の班が防空壕掘り、古賀教頭の班が学校水田で草取りをしていて被爆、教職員28名が犠牲となりました。
このような甚大な被害を受けた山里国民学校ですが、被爆から約2か月で授業を再開。1949年には被爆児童による手記『原子雲の下に生きて』(永井隆 編)、1950年にはそれに基づく短編映画『長崎の子』が制作されました。
校内には教職員や婦人会により掘られた防空壕跡が被爆遺構として保存され、学校敷地内にある原爆資料室では、被爆資料や永井隆博士の自筆の書などが展示されています。また、『原子雲の下に生きて』の原稿料を出し合って造られた慰霊碑『あの子らの碑』をはじめとする、いくつもの平和のモニュメントがあります。
〇山里小学校原爆資料室
【見学日時】
毎日9:30~16:30
※12/29~1/3は、見学できません。
※上記以外、点検等により休館する場合があります。
【料金】
無料
MAP
- 爆心地から:700m