長崎の被爆遺構
浦上天主堂石垣
江戸時代から残ると伝わる浦上天主堂の石垣は、もともとこの地区の庄屋屋敷の石垣でした。
明治時代になり、浦上地区のカトリック信者は、江戸時代に毎年この庄屋屋敷で絵踏させられていたこの地に教会を建設しました。建設開始から20年後の1915年、浦上天主堂は建立(献堂)されました。
それから30年後、1945年8月9日、原爆により堂宇は破壊され、信者の大半を失いましたが、それでも同じ場所に教会を再建し、現在に至ります。
浦上のカトリック文化を物語る遺構は多くありませんが、この石垣はいまも教会の一部としてそこにありつづけています。
浦上天主堂石垣
浦上地区のカトリックの歴史は古く、1584年にイエズス会に寄進されたころには名実ともにキリシタンの村となっていました。
しかし、その後、キリスト教が禁止されると、潜伏キリシタンとなり250年以上にわたり信仰を守り抜き、1865年に大浦天主堂で「信徒発見」につながりました。
その後、幕末から明治初期の大弾圧「浦上四番崩れ」により、3000人以上の村民が西日本各地に流刑にされ、600人以上の村民がその間に亡くなったと伝えられています。
その弾圧を生き抜いた村民は、浦上に戻ったのち、聖堂を建設することになり、この場所が選ばれました。この場所は、江戸時代の庄屋屋敷跡であり、先祖たちがこの地で絵踏みさせられていたことへのつぐないの気持ちが強かったと伝わります。
1895年から開始された聖堂建設は、全村流刑にされたあと貧しい暮らしをしていた信者にとって経済的に重く、夕飯のおかずを減らして煉瓦を買い、労働奉仕で信者が一枚一枚煉瓦を積み重ねて建設にあたりました。途中、日露戦争による中断などもありましたが、建設開始から20年の1915年、信徒発見から50年の佳き日に建立(献堂)されました。
しかし、1945年8月9日、爆心地から約500mの距離にある浦上天主堂は原爆被爆により倒壊し、信者の大半が命を落としました。それでも、生き残った信者、復員や外地から引き揚げてきた信者が、1946年には仮聖堂を建立し、1959年には聖堂を再建しました。いまでは、旧浦上天主堂とともにあった遺構は多くありませんが、この石垣は江戸時代から現代にいたるまでの浦上の歴史を語り継ぐよすがとなっています。
MAP
- 爆心地から:500m