長崎の被爆遺構
浦上天主堂旧鐘楼
浦上天主堂は、爆心地の北東約500mに位置します。浦上カトリック信者が30年の歳月をかけて、積み上げていった煉瓦造りの天主堂は、原爆により、わずかな堂壁を残して倒壊しました。
天主堂の正面には2基の塔があり、その上に鐘楼がありましたが、原爆被爆により鐘楼のドームは南側のものが天主堂内に落下し、北側のものは天主堂北側に落下し、がけ下を流れる小川まで滑落しました。この鐘楼は、鉄筋コンクリート製で直径5.5m、推計約50tと言われています。
浦上天主堂旧鐘楼
浦上天主堂旧鐘楼(国指定史跡長崎原爆遺跡)
1915年に完成した浦上天主堂は信者の経済的負担を減らし、祈りの場を早く持つため、当初の設計を変更してドームを作らず瓦屋根でした。教会の鐘の塔(鐘楼)がなかったため、1925年聖堂の正面に双塔を建て鐘楼としました。双塔の建設は、長崎県を中心に多くのカトリック教会堂の建設を手掛けた鉄川与助によります。
教会にとって、鐘は欠かすことができないもので、主に祈りの時間を告げるほか、「喜びの鐘」や「葬送の鐘」などもありました。以前は、浦上地区でも祈りの時間を告げる鐘が鳴ると、家であっても、外で歩いていても畑仕事をしていても、その場で静かに祈りをささげていた光景が広がっていました。
原爆被爆の際に、浦上天主堂は一部の堂壁を残して倒壊し、鐘楼は南側のものが天主堂内に落下し、北側のものは天主堂北側に落下し、がけ下を流れる小川まで滑落しました。
この鐘楼は、鉄筋コンクリート製で直径5.5m、推計約50tと言われています。
北側の鐘楼は、1950年に河川改修により石垣の中に埋められましたが、原爆被爆を伝える遺構を是非公開して欲しいという長崎市の依頼に答え、1971年に発掘され、現在の状態となりました。
MAP
- 爆心地から:500m