長崎の被爆遺構

Atomic bomb remains

長崎原爆の中心点である「爆心地」。
その周囲には一瞬で当時の街並みを焼き尽くした原爆の恐ろしさを伝える建造物等や、被害に遭われた方々の慰霊碑などが点在しています。
このページでは、これらの「被爆遺構」や平和関連施設を紹介しています。

旧城山国民学校校舎

城山国民学校は爆心地から最も近くに位置する国民学校でした。
校舎は鉄筋コンクリート造だったため、辛うじて外形は保ったものの爆風と熱線が引き起こした火災により全壊状態でした。
現在保存されているのは階段棟の部分で、1999(平成11)年2月から児童の発案で展示室として公開されています。原爆後の高熱火災により炭化した木煉瓦や被爆当時の写真パネル等を見学できます。被爆遺構を肌で感じ、被爆の実相を学ぶことができます。

爆心地

1945(昭和20)年8月9日11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂しました。
原爆が炸裂した直下の場所が爆心地です。
現在、原子爆弾落下中心地碑という黒御影石の柱が立てられ、この場所が原爆の被害の基点となった場所であることを伝えています。

山王神社二の鳥居

1924(大正13)年10月に山王神社の参道の延長に伴い設置された鳥居で、被爆当時、神社の外側から数えて2番目の鳥居だったので二の鳥居と呼ばれています。
爆心地から南東へ約800mに位置し、爆風によって一方の柱は倒壊し、一本柱となり上部に残された笠木が反対方向にずれています。また、熱線による立っている柱の爆心側は鉱物が溶け刻字が読めなくなっています。
長崎を代表する被爆遺構の一つです。

旧長崎医科大学門柱

爆心地から600mに位置するこの正門には1.2m四方、高さ1.8mの門柱が左右に設置されており、左側の門柱は爆風の影響により9cmも前にずれ、台座との間に最大で16cmの隙間ができました。これは、爆風の圧力を測定する基礎となりました。
戦後、キャンパスの復興に伴いこの門は通用門として利用されることになりましたが、門柱は現在も被爆当時の姿を残し、原爆の悲惨さを伝えています。

浦上天主堂旧鐘楼

浦上天主堂は、爆心地の北東約500mに位置します。浦上カトリック信者が30年の歳月をかけて、積み上げていった煉瓦造りの天主堂は、原爆により、わずかな堂壁を残して倒壊しました。
天主堂の正面には2基の塔があり、その上に鐘楼がありましたが、原爆被爆により鐘楼のドームは南側のものが天主堂内に落下し、北側のものは天主堂北側に落下し、がけ下を流れる小川まで滑落しました。この鐘楼は、鉄筋コンクリート製で直径5.5m、推計約50tと言われています。

浦上天主堂石垣

江戸時代から残ると伝わる浦上天主堂の石垣は、もともとこの地区の庄屋屋敷の石垣でした。
明治時代になり、浦上地区のカトリック信者は、江戸時代に毎年この庄屋屋敷で絵踏させられていたこの地に教会を建設しました。建設開始から20年後の1915年、浦上天主堂は建立(献堂)されました。
それから30年後、1945年8月9日、原爆により堂宇は破壊され、信者の大半を失いましたが、それでも同じ場所に教会を再建し、現在に至ります。
浦上のカトリック文化を物語る遺構は多くありませんが、この石垣はいまも教会の一部としてそこにありつづけています。

原爆遺物展示室(浦上天主堂)

浦上教会内の信徒会館は1990年、信徒発見125周年を記念して、建設されました。その1階ロビーに、「原爆遺物展示室」が置かれています。
浦上教会の歴史や、被爆前後の写真を紹介したパネル、被爆した聖像や聖器具、信徒の家庭から寄贈された聖母像などが展示され、説明文は日本語・英語・韓国語で付けられています。

永井隆記念館

「如己愛人(己のごとく人を愛せよ)」
これは、永井隆博士(1908-1951)が生涯を通して、体現した言葉です。博士は、その言葉通り、自らも原爆により重傷を負いながらも、負傷者の救援・救護活動を続けられました。また、闘病生活を余儀なくされても、病床での執筆等をとおして平和と隣人愛を訴えられました。
博士の終の棲家となった如己堂と永井隆記念館では、博士の生涯と業績をわかりやすく紹介し、平和の尊さや願いを学べる場となっています。

山里小学校防空壕(山里小学校資料室)

山里小学校は、爆心地から北へ約700mに位置します。かつては山里国民学校と呼ばれたこの学校は、鉄筋コンクリート3階建の「コ」の字形の校舎は全壊し、北側の校舎の1階と2階を除き全焼しました。
山里国民学校には、教職員や動員学徒が避難するための防空壕が多く掘られており、その一部が現在も被爆遺構として保存されています。また、原爆資料室で被爆資料を見学できるほか、永井隆博士の発案により被爆児童の手記を集めた『原子雲の下に生きて』が出版され、その原稿料の一部を出し合って造られた慰霊碑『あの子らの碑』をはじめとする、いくつもの平和のモニュメントがあります。

べアトス様の墓

山里小学校の西側に細い道路があります。この道路は江戸時代の旧浦上街道のルート上にあり、その一角にベアトスさまの墓はあります。
1936(昭和11)年3月に建てられたこの碑は、原爆被爆時、爆心地から北へ約700m位置にありましたが、強烈な爆風にも倒れることはありませんでした。しかし、台の石と碑がわずかにずれており、爆心側の左側面は熱線で黒く焦げています。

山王神社大クス

山王神社大クスは、爆心地から約800mに位置している山王神社の境内にあります。原爆当時、境内の樹齢400年以上という大クスも爆風と熱線を受け、黒焦げの太い幹だけが残り、あたかも死んでしまったかのようでした。しかし、被爆から約2か月後には、新芽が芽生き、その後も順調に樹勢を回復し、葉の生い茂る大クスに回復しました。原爆により地域全体が廃墟となり、家族や親せきを失い、住む場所もままならなかった地域の人々は、この大クスの生命力の力強さに大いに勇気づけられたといいます。

ゲストハウス (旧長崎医科大学の配電室)

この建物は1931年に建てられ、戦前は宿泊施設(ゲストハウス)として使われていましたが、戦時中は配電室として使用されていました。分厚いコンクリート造であったため、爆心地から約500mという近距離にあったにもかかわらず、大きく破壊されることもなく原型を留めた形で残りました。

平和公園

平和公園は、爆心地地区(祈りのゾーン)・平和祈念像地区(願いのゾーン)・長崎原爆資料館地区(学びのゾーン)など5つのゾーンからなる総合公園です。悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられました。
平和祈念像地区では、長崎市民の平和への願いを象徴する「平和祈念像」をはじめ、平和の泉や各種モニュメントなどがあり、平和の大切さを感じながら、平和を願う場所となっています。

原爆資料館

長崎原爆資料館は、長崎市の原爆被爆50周年記念事業の一つとして、1996(平成8)年4月にそれまで被爆資料を展示していた長崎国際文化会館を立て替えて開館しました。
被爆資料や被爆の惨状を示す写真などの展示をはじめ、原爆が投下されるに至った経過、核兵器開発の歴史、平和希求などのストーリー性のある展示を行っています。

原爆医学資料展示室(長崎大学)

原爆医学資料展示室では、被爆直後の救護・調査活動を行った永井隆博士や調来助教授らの紹介のほか、長崎医科大学・附属医院の被害状況を写真やパネルで説明しています。
故西森一正教授が被爆時に着用されていた血染めの白衣の実物や日本映画新社「原爆の長崎」の記録映画(15分)を上映しています。
また、長崎の原爆が人体に与えた医学的影響についてパネルで詳細に説明しています。パネルは日英併記です。