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②長崎の歴史を辿り被爆の実相を学ぶコース

長崎と浦上地区のカトリックの歴史を辿るとともに、関連する原爆遺跡を巡るコースです。

おおすめルート02

長崎の歴史を辿り被爆の実相を学ぶコース

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コースマップ

爆心地

長崎原爆の中心点

1945(昭和20)年8月9日11時2分。アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂しました。
原爆が炸裂した直下の場所が爆心地です。
現在、原子爆弾落下中心地碑という黒御影石の柱が立てられ、この場所が原爆の被害の基点となった場所であることを伝えています。

浦上天主堂石垣

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江戸時代から残ると伝わる浦上天主堂の石垣は、もともとこの地区の庄屋屋敷の石垣でした。
明治時代になり、浦上地区のカトリック信者は、江戸時代に毎年この庄屋屋敷で絵踏させられていたこの地に教会を建設しました。建設開始から20年後の1915年、浦上天主堂は建立(献堂)されました。
それから30年後、1945年8月9日、原爆により堂宇は破壊され、信者の大半を失いましたが、それでも同じ場所に教会を再建し、現在に至ります。
浦上のカトリック文化を物語る遺構は多くありませんが、この石垣はいまも教会の一部としてそこにありつづけています。

原爆遺物展示室 (浦上天主堂)

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浦上教会内の信徒会館は1990年、信徒発見125周年を記念して、建設されました。その1階ロビーに、「原爆遺物展示室」が置かれています。
浦上教会の歴史や、被爆前後の写真を紹介したパネル、被爆した聖像や聖器具、信徒の家庭から寄贈された聖母像などが展示され、説明文は日本語・英語・韓国語で付けられています。

浦上天主堂旧鐘楼

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浦上天主堂は、爆心地の北東約500mに位置します。浦上カトリック信者が30年の歳月をかけて、積み上げていった煉瓦造りの天主堂は、原爆により、わずかな堂壁を残して倒壊しました。
天主堂の正面には2基の塔があり、その上に鐘楼がありましたが、原爆被爆により鐘楼のドームは南側のものが天主堂内に落下し、北側のものは天主堂北側に落下し、がけ下を流れる小川まで滑落しました。この鐘楼は、鉄筋コンクリート製で直径5.5m、推計約50tと言われています。

べアトス様の墓

山里小学校の西側に細い道路があります。この道路は江戸時代の旧浦上街道のルート上にあり、その一角にベアトスさまの墓はあります。
1936(昭和11)年3月に建てられたこの碑は、原爆被爆時、爆心地から北へ約700m位置にありましたが、強烈な爆風にも倒れることはありませんでした。しかし、台の石と碑がわずかにずれており、爆心側の左側面は熱線で黒く焦げています。